TSUCHIDA YASUHIKO - 土田康彦

恩師

私には多くの恩師との出会いがある。しかし、彼らは私に具体的に何かを教えようとはしていなかったはずだ。単純に私が彼らを心から尊敬していた、慕っていただけだ。しかし、時が過ぎれば、彼らのことを恩師と呼ぶようになる。この関係こそ、教育にとって望ましい相互関係であろう。

教育者は尊敬されるべきだ。人間は誰かを尊敬すれば自ずとその人から何かを学ぼうとする。

尊敬できる人間との出会いは、つまり衝撃との出会いである。人は皆、体内に豊かな可能性と大きな希望をもって成長する。その過程で衝撃が必要なのである。それらを体内から外に押し出す機会がなければ、生まれてきた理由がなくなってしまう。

もしあなたに尊敬する恩師がいたならば、恩師はあなたがどれだけ離れても、どれだけ成長しても、いつでも近くにいてくれる存在だ。それを理解するためには、もし、あなたを慕ってくれている若い世代がいるならば、彼らの純粋な笑顔を思い出してみて欲しい。どうして彼らを見放したり、裏切ったりできるだろうか。

10代の後半、私はパリに住んでいて、そこで寿司を学ぶ機会がありました。パリの日航ホテルの和食レストランでしばらく働いた時のことです。伊藤さんとは、そこで出会いました。

伊藤さんは銀座で長く修行された本格的な寿司職人で、世界各地の高級ホテルなどがオープンすれば、助っ人として、もしくは寿司技術の指導に尽力されている方でした。彼には品があり、男気があり、常にリーダーシップを発揮して、世界各地の若き寿司職人たちがあっという間に憧れてしまうほどの兄貴的存在の人物でした。彼の鋭いまなざしと仕事に対する真剣さ、誇り、そして寿司を握る速さ、その寿司の美しさ、うまさ、それはもう想像を絶するものであり、そういったものを初めて目にした時の衝撃は今でも忘れられません。

今でこそ、世界一や日本一といわれる人物と一緒に仕事をしたり、お付き合いをさせていただいていますが、まだ何者でもなかった10代の私に、『俺は俺が日本一だと信じている』と語ってくれた人は伊藤さんが初めてでした。生まれて初めて聞く、信念の強さ、プライドというものが感じられる言葉でした。私はショックを受けました。それ以来、伊藤さんを心から慕い、尊敬する人物になりました。

しかし、それから一年ほどで私は伊藤さんと別れました。彼はシドニーに、私はヴェネチアへ。そして私は寿司職人にはならず、芸術の道に入ったのです。その私が昨年、「日本の様式美」をテーマに小説を書くことになりました。私は物語の舞台を寿司屋に設定しました。しかし、私が寿司職人の世界にいたのはもう20年以上も前の話です。筆が行きづまった私は、今の寿司の世界を垣間見たくなりました。

そこで私は、いつもお世話になっている広告代理店の中村氏と、もう一人、帝国ホテルの田代支配人からご紹介いただいた料理人の吉見氏に相談しました。『日本一の寿司屋さんを紹介してください。可能なら、カウンターの横で2日ほどビデオを回したい』というわがままに、二人は『よしわかった。日本一の寿司屋を紹介してやる』と快く返事をくれたのです。中村氏と吉見氏の二人にはまったく接点はありません。

ところが、驚いたことに、二人が私に紹介してくれた寿司屋は、偶然にも同じ店だったのです。そして二人が口を揃えるようにして私に言うのです。

『その日本一の寿司屋、赤坂にあるんだけど、実はその職人は目が見えないんだ』。『でも彼はやはり一流だから手のひらの感覚が優れていて、握手をしただけで、リピーターのお客さんが分かって、挨拶するんだ。それくらい本格的な職人だ』とも教えてくれました。

私には、そうしたことはさほど影響はないと思っていました。何よりもその職人さんが私の依頼を受けてくださったことが嬉しかったのです。結果的には一軒しか行ける店がなくなったけれど、この親友二人が『日本一』と言うのなら、それは間違いなく日本一だろうと期待もしていました。

初めての日、吉見氏と一緒に赤坂の店を訪れました。のれんをくぐると、奥の方から白い杖をコトコト鳴らし、うつむきながら壁を伝って私たちの方に向かって歩いてくる料理長がいました。彼は私の前に立ち握手を求めました。そして彼が頭を上げた瞬間、私は気絶しそうになりました。私の手を握っているのは伊藤さんなのです。20年前の私のかけがえのない恩師なのです。

動揺を隠せなかった私は、その夜、カウンターで日本一の鮨どころか、涙と鼻水の混じったまずいまずい寿司を頬張りました。正直に言えば、誤解を恐れずに言うならば、私は私が多感な頃に憧れた恩師のそのような姿は見たくなかったのです。結局、泣き崩れただけの私は、『かつて私はあなたの弟子だった』と告げることができず、初日は店を辞してしまいました。

次の日、中村氏が前もってそのことを伊藤さんに伝えてくれていました。夕方一時間ほど個室で話をする機会まで作ってもらいました。

『あのときは殴ったりして悪かったな』恩師のそんな言葉で再会の時間が始まりました。伊藤さんは全くあの20年前の日と同じように頼もしく、小説が書き上がるまで全面協力すると言ってくれました。そして最後に『立派になった土田の姿を一目見たかった』伊藤さんはそう言い残して仕事場に戻って行きました。私の胸は張り裂けそうでした。

これが恩師の姿なのだと思います。尊敬の念があれば、世界中どこにいても、どれだけ時が流れても、師弟間の人間教育は続くのです。

お世話になった恩師のことをここまで書いておきながら、最後にこのことを書くのは矛盾しているようだが、しかし誤解を恐れることなく、ここに私の偽らざる気持ちを記しておきたい。

単刀直入に言えば、つまるところ、最後の最後まで自分のそばで自分を励ましてくれる存在、それは過去の自分だけなのだ。大人になろうとして、もがき続けた10代の頃の自分。夢に向かって疾走した20代の自分。自分を確立したくて社会との衝突を繰り返した30代の自分。自分自身の信念と、孤高の振るまいと、自分への誇りを持って生きてきたのであれば、何も怖くはないはずだ。如何なる困難にも、その頃の自分がいつもそばにいてくれる。究極的には過去の自分しか自分の師は、いないのだ。その人は、あなたを見捨てるはずもない。

最後に М・パワーズ氏の詩を綴ります。

足跡

ある日、一人の男が夢を見た
神さまと一緒に海岸を歩いている夢を見た
天を横切って彼の人生の場面が現れた
それぞれの場面で彼は二組の足跡があるのに気がついた
一つは彼のもの、そしてもう一つは神さまのものであった
彼の人生の最後の場面が彼の前に照らされた
彼はもう一度砂の上の足跡を見直した
彼は彼の人生の道程の中で、何度も足跡が一組しかないことに気がついた
彼はさらにそれらが自分の人生の中で
一番辛くて悲しい時におこっていることに気がついた

彼はこのことが非常に気にかかり、神さまに質問した
「神さま、あなたはかつて、私があなたに従うことを決心した時、
ずっと、私と一緒に歩いてくれると言いましたね。
しかし、私の人生の中で最も苦難な時、
私はたった一組の足跡しかないのに気がつきました。
私はなぜ、私が最もあなたを必要とした時に、
あなたが私を見放したのか、理解できません」

神さまは彼に答えて言われた。
「わが息子よ、わがかわいい息子よ、私はあなたを愛している。
私は今まで、一度もあなたを見放したことはない。
あなたが試練にいる間、あなたが一組の足跡しかみえない時、
それは、私があなたを背負っていた時である」